jthirtyの日記

ちょっと待って


Nさんが亡くなられた。
父親の従兄弟にあたる人で医者であり医療ジャーナリストであり作家である。
肝臓ガンでまだ56歳の若さであった。

全て後から考えたことで説得力を持たないけれど今日はずっと嫌な予感がしていたのだ。
朝九時頃に広島の実家に用があって電話をしたのだが話し中で誰も出ない。
二、三度かけ直したがずっと話し中であった。僕も遅刻するので諦めて出社したけれどずっと嫌な胸騒ぎが離れなかった。
朝のあの時間に誰かと電話をしてること自体まず珍しい。家には今年定年退職した父と母しか暮らしていない。
朝食もとっくに済まして掃除や洗濯などしてる時間だ。もう少し後の時間だったら買物にでも出てる場合も有るが。

仕事を終えて夜再度電話をした。
もちろん二人とも在宅で無事に用件を伝えることができた。何を心配していたのか分からないが少しほっとした。
そしてなんとなくそういえば朝も電話をしたんだけどと言ったところにNさんの訃報を知ることになる。

僕はNさんに直接会ったことはない。
本や雑誌に新聞やテレビなどメディアを通してしか触れたことがない。あとは父の話を通して。

今年の初め粉雪舞う寒い頃にNさんの写真展を見に行った。最近は写真もやっていたのである。
頻繁に会場にもいたらしいのだが僕が訪れた時はたまたま留守であった。
芳名帳に名前を書いて彼の息子であると一言添えて帰ったら暫くして丁寧なお礼の葉書が届いた。
その時はこれからは色々お話を伺ったりなどできるなと漠然と楽しみに思っていた。
僕の弟は別の日に遊びに行って会うことができたと言っていた。運命とはこんなものなのだろうか。
今週末に父が上京してくるのだが日曜にNさんと会う約束をしていたそうだ。

同じような思い出が他にもある。
昨年の春に亡くなった伯母さんのことだ。
亡くなる少し前に僕の彼女の習っている三味線の発表会が銀座であった。
あまり元気がなかったので東京まで出てこないだろうなと思いつつ招待状だけは送ってあったのだ。
ところが当日わざわざ銀座まで演奏を見に来てくれたのだ。
彼女のいる楽屋まで挨拶に来てくれたらしいのだ。
最初から来てくれるなんて思ってなかった僕は会場の中に伯母の姿を探すこともなくあとからその事実だけを知った。
後でお礼の電話をしてゴールデンウィークには遊びにいくからなどと話したのが僕と伯母と最後の会話。
姿を見たのは演奏会のもっと前、同じ年の正月が最後になってしまった。

なんでもかんでもこんな風に考えてしまうときりがないのだけれどもう一つある。
去年の二月頃初めて彼女の実家に挨拶に行った。
両親とお祖母ちゃんに挨拶はしたのだけれど丁度お祖父ちゃんだけは体調が優れぬということで会わずに帰ることになった。
また五月には遊びに行く予定になっていたのでその時にでもということになったのだ。
一目だけでも会って挨拶をしておけばよかったのだけどすぐまた来るからと会わずに僕は帰ってしまった。
結果一度もお祖父さんとは会うことが出来なかった。

一期一会って言葉もありますね。
その通りなんですけどね、それを実際に思うときは既に遅いんですよね。
あの時あの人とたらればというのはどちらか一方がくたばるまで避けられないことでしょう。
美しくもあり、なんだかとってもやるせないっすね。堪らないっすね。すねえ。

僕は死にたくないんですよ。
と改まって書くほどのこともないんですけど。
生きれるなら200歳くらいまで生きてもいいと思ってる。
ふと自分が死んだときのことを考えてしまって泣いてしまったことがある。
悲しみにくれる家族たち、僕の生きていた頃の素晴らしい話をする友人たち。
そんな光景を夢想して僕は泣いた。
僕は自分が死んだ光景を想像し泣いている僕を思い切り殴り殺してやりたくなってまた泣きたくなってくる。
どこまでいっても弱虫で甘ったれで卑怯な自分。

本当に死ぬのが怖くてたまらない。
誰かの思い出になってしまうのが嫌なのだ。

200歳じゃまだ早い。
300歳くらいまで僕は生きていたい。


なんだか支離滅裂で申し訳ない。
一気に書いてしまいたいと思いながらも一気に書けなかった。
一度もあったこともない人なのに何故だか悲しさが尽きない。
やっぱり誰かが死ぬのは嫌なのだ。自分を残して。
ずるいなあ。ずるいよなあ。

僕は毎晩寝る時に「明日も朝がちゃんと来ますように。」と祈りながら眼を瞑ります。